■エル・レコード・イン東京1987年: 東京冒険譚 文◉ルイ・フリップ/El Records in Tokyo, 1987 : A Japanese Odyssey by Louis Philippe, a.k.a. Philippe Auclair
エルでの成功は、国内外で行った数多くのライヴの結果ではなかったと言っていいだろう。ぼくたちは、イギリスやヨーロッパは言うまでもなく、ぼくたちのほとんどが拠点としていた西ロンドンで“ブレイク”しようとは思っていなかった。実際、ぼくの記憶が正しければ、1987年の日本という超現実的な状況を除けば、ぼくたち──ジュリア・ギルバート(別名アンソニー・アドヴァース)、サイモン・フィッシャー・ターナー(別名キング・オブ・ルクセンブルグ)とぼく(ルイ・フィリップ)(1987年9月29日に東京へ向けて出発したのと同じトリオだ)──がエルのアーティストとしてライヴを行ったのは、シャフツベリー・アヴェニューのすぐ近くにある“ライムライト”での一度切りだ。そのときの記憶は、サイモンが女装していて、ジュリアはタータンチェックの衣装を着ていて、オーディエンスは明らかに当惑した反応だった。
ぼくたちは、選択の余地なく速やかにステージ上から姿を消した。ぼくたちの最高責任者、マイク・オールウェイは、ライヴ・パフォーマンスは、彼がぼくたち全員に、というかぼくたちを超えてレーベル自体に作りたいと思っていた神秘性に何のプラスにもならないと考えた。エルは、実際の人間がアンプのリード線につまずいているようなありふれた行為に汚されるべきではないファンタジーの領域にあるものだと考えられていた。いくつかのただし書きはあるものの、ぼくたちのほとんどはこの美学を支持していたことを付け加えておくべきだろう。マイクの言い分は理解できた。また一部の人たち(特にマスコミ)にとっては、これはぼくたちがモードリン・カレッジやベリオール・カレッジに入る前にギャップ・イヤーで世界を旅するようにポップ・ミュージックの世界に入った、俗物的なガキの集団であることを証明するもう一つの証拠であることも理解できた。
◉Anthony Adverse
そうだとしたら。ぼくたちがライヴをやりたかったとしても、できなかっただろう。ショック-ヘッデッド・ピーターズやゴル・ガッパス、アンバサダー277、マーデン・ヒル(マーデン・ヒルはともかく、彼らはいずれもエルのファンタジー国に一時的に訪れた人たちだった)、そしてケヴィン・ライト(オールウェイズ)や、あまりに短期間だったモーマスのような本物のシンガー・ソングライターを除いて、エルの“バンド”は、“バンド”として存在していなかった。同じミュージシャンの小さなグループ(ぼくもその一人)は、プロデューサーのリチャード・プレストンの目を盗んで、アンソニー・アドヴァースやキング・オブ・ルクセンブルグ、バッド・ドリームス・ファンシー・ドレス、ウッド・ビー・グッズ、フロレンティーヌといったぼく自身も含めた他のミュージシャンたちのレコードをバックアップしていた。驚異的なマルチ・インストゥルメンタリストでありアレンジャーのディーン・プロドリックは、ピアノ、アコーディオン、ほとんどのキーボード……ファゴットを担当した。ドラムは、元モノクローム・セットのメンバーであり、ぼくたちの専属カメラマンでもあった、素晴らしく、そして惜しまれる故ニック・ウェソロウスキーが担当。コリン・ロイド-タッカー(元ザ・ガジェットのメンバーで、ドゥーフィルではサイモンのパートナーで、のちにケイト・ブッシュとコラボレートした)は、ギターとバック・ヴォーカルで参加。ゴー・ビトウィーンズのリンディ・モリソンとアマンダ・ブラウンは、ドラム、ヴァイオリン、オーボエで参加した。アイレス・イン・ギャザのマーティン・ベイツはベースを弾き、力強いヴォーカルを披露してくれた。ぼくは主にアレンジャーとしてセッションに参加し、クラシック・ギターとアコースティック・ギター、少しのベース、キーボードやヴォーカルとしても加わっている。ぼくたちは、低予算のレッキング・クルー(スタジオ・ミュージシャン)のようなもので、お互いに助け合っていたのは楽しかったけど、きちんとリハーサルをする機会はなかった。ほとんどの場合、新曲はスタジオのその場で覚えた。いったいどうやってライヴをやろうと思ったのか? 誰がぼくたちを雇ってくれるのか? だけど日本はそうではなかった。
◉Derek Jarman
ぼくたちの誰も、エルのサウンドが地球の反対側でちゃんとした聴衆を見つけたことを知らなかった。そして1987年の夏、全くの青天の霹靂のように、ぼくたちのレコードの何作品かが日本の輸入チャートに入ったこと(この天の恵みのような時期にぼくの3枚のシングルは同時にトッフ20にチャートインした)、そしてチェリー・レッド・レコードがレコード会社のVAPの子会社であるトイズ・ファクトリーとライセンス契約を結んだことを知った。当時日本でもっともホットなバンドだったフリッパーズ・ギター(片割れは、のちにエレクトロニカの第一人者として世界的に有名になる小山田圭吾だった)は熱烈なファンで、何年も後に圭吾は、エア・スタジオで、ぼくの曲をいくつかパクったと、笑いながらぼくに聴かせてくれたほどだった。エルのサウンドは、軽快でポップでカラフルでありながら、性的な意味だけではない曖昧さも持ち合わせていて、日本の都会の若い男女、とりわけ夜になると“ハプニング”の多い渋谷の歓楽街に集まる若者たちの感性にぴったりと合っていた。のちに“渋谷系”と呼ばれるようになったサウンドは、ピチカートVをはじめとする東京人の基になっていたが、のちに明らかになったように、ぼくたちのサウンドにも多くの要素があった。
しかしその前にぼくたちはそれまでにやったことのないことをしなければならなかった。リハーサルだ。バンドはほとんど自分たちで選んだ。ディーンは音楽監督でありキーボードを担当する。ドラムはニック。マーティンはベース。サイモンはぼくのためにギターをプレイし、ぼくは彼のためにプレイする。ジュリアはぼくたち全員のためにバック・ヴォーカルを務める。日程は3日間だけで、(当然だけど)渋谷の中心にあるクラブクアトロでだった。毎晩、2人うち一組がもう一組とペアを組み、最終的にはそれぞれがアーティストとして2回のライヴを行うことになった。つまり、ぼくたちのクインテットは、2日間で50曲近くの曲を覚えたことになる。しかもその中にはまだ準備が終わっていないものもあった。
◉The king Of Luxembourg
そんな中、ぼくたちはノミス・スタジオに集まった。ジェリー・リー・ルイスやエヴァリー・ブラザーズ、日本のバンドなども迎え入れていたノミスは、ぼくが住む通りあって便利だった(この選択には何か意味があったのかもしれない)。率直に言おう。リハーサルのことはほとんど覚えていないけど、ジュリアが歌う曲(のちにアルバム『Red Shoes』に収録された「The Garden Of Eden」)に一節が足りないことに気がついて、慌てて家に帰ったことがあった。なんとか韻を踏んで完成させたけど、ぼくの歌詞の中でいい詞だったとは言えない。
そして成田空港行きのジャンボ機747に搭乗した。ぼくたちはJALを利用したけど、リチャードは1日遅れでアエロフロートに乗ってきた。マイクは合流したが、世界一心配な飛行機に乗るべきではなく、それがレーベルの将来を左右するビジネス上の関係が終わってしまうかもしれないような、ホストの日本に重大な侮辱を与えてしまうかもしれないと言われた。その後、彼は13時間の旅の後半はシベリアの凍てつくような広大な大地を眺めていた。東京で再会したとき、彼はぼくにこう言ったんだ。「僕は自分にこう言っていたよ。もし墜落したとしても、少なくとも本当に美しいところだって」
ぼくたちにとって、このフライトの最大の思い出は、サイモンが昼寝をしたいと言い出し、離陸前に記録的な速さで日本酒を2本飲み干し、隣の席の床に丸くなって、成田に着陸するまでそこにいたってことだ。
この旅が普通の旅ではないことを示す最初の兆候は、空港でぼくたちを待っている人たちがいたことだった。レコード会社の重役でもなく運転手でもない人たちだ。ファン、それもほとんどが10代の女の子たちが、税関を出てきたぼくたちを見て叫び出した。もちろん何千人、何百人というわけではないけれど、数十人のファンが集まっていて、ぼくたちにとってはスタジアム・ロックの観客に相当した。ぼくたちは、2台のおしゃれなヴァンに乗せられて、成田から渋谷までの長い旅に出た。そして東京で一番ヒップな場所にある、ぼくたちが演奏する会場のすぐ近くにあるノブ・ホテルの部屋が予約されていた。
◉Louise Phillipe
1987年9月29日だった。10月6にはすべてが終わってしまう。しかし“これ”には多くのことが含まれていた。ああ……もう1000字をはるかに超えてしまったから、ペースを上げなければならない。実際のところ、その1週間に起こったことのほとんどは、特にサイモンとぼくにとってはぼんやりとしたものだった。というのも、リハーサルやサウンド・チェック、そして演奏していないときは、何十人ものジャーナリストに自分たちやエル・プロジェクトについて話していたからだ。可哀想なサイモンは、ある深夜のテレビ番組に招待されていて、彼は知らなかったのだけれど、その番組ではいつもとても若い女性が生でストリップショーを披露することになっていたからだ。しかも彼の目の前、ほんの数メートル先でのことだった。番組は、ごく普通のテレビ・スタジオで撮影され、司会者たちはみんな完璧なドレスやスツーを着ていたが、サイモン(おそらくフリルのついたシャツに太ももの真ん中あたりまである革のブーツを履いていた)は必死に目を逸らそうとしていた。ぼくは、ニットとマーティンと一緒にホテルの部屋で、サントリー・ウィスキーの角瓶を手に、ぼくたちの友人と同じようにバツの悪い思いをしながら、そんな超現実的なシーンを見ていたことを覚えている。
他にもいろんな映像が浮かんでくる。サイモンとぼくは、VIP待遇のレコード店(店長は“最近来店したのはトッド・ラングレンでした。とても光栄です!”と言っていた)を出ると、10〜12階建てのビルの大半を占める巨大スクリーンに、サイモンが歌うショート・フィルムが映し出されていた。それから(デレク・ジャーマンの映画に出演していた)ティルダ・スウィントンがサイモンに会いにホテルに来て(サイモンとぼくは、あの旅で切っても切れない間柄だった)、ロビーの磨かれた大理石の上を膝をついて走ったり滑ったりして挨拶し、ホテルでかなりの騒ぎを起こしたことも覚えている。
たまたまデレクもそこにいた。彼はおそらく、サイモンがほとんどの曲のアイデアを出し、ぼくがストリングスのアレンジを書いた、彼の最新作『The Last Of England』のプロモートのためにいた。そしてぼくたち4人は、自分たちの残りの旅の間(のちにぼくのために日本を訪れる)、深夜の本部となっていたアルコ・ホールという店に行った。デレクはぼくたちのステージに来て、彼がどこにでも持ち歩いていた16ミリのカメラでそのステージを撮影するべきだって提案した。
◉Louise Phillipe
あの夜、彼が撮影した映像は、サイモンが懸命に探したにもかかわらず、見つからなかったことは、ぼくのキャリアの中で大きな後悔の一つと言えるだろう。それでもどこかに、デレク・ジャーマンが最前列で撮影した、東京でのルイ・フィリップとキング・オブ・ルクセンブルグのステージ映像がある。ぼくが特に見てみたい場面がある。「Valleri」(と思う)という曲を演奏していて、全員が忍者の格好をしていた(サイモンのアイデアだった、他に誰がいる?)。ぼくはスツールに座って、クラシック・ギターを弾いていたのだけれど、ちょっと体を傾けすぎて、スローモーションのように後ろに倒れてしまった。ただ忍者の衣装に守られたのか無事に着地して、仰向けになって演奏を続けた。他に選択はないじゃないか。サイモンは笑いすぎて歌うのに必死だったし、デレクは満面の笑みで撮影していたのが目に焼き付いている。
ぼくたちがどれほどのものだったのかわからない。だけどぼくたちはかなりいいステージをしたと言われている。毎晩、スーツに蝶ネクタイ、深紅のトルコ帽を身につけた立派なニックが紹介をやったけれど、観客の悲鳴でほとんど聞こえなかった。ぼくが覚えているのは、ある若い女の子が涙を流しながら、観客をかき分けて一番前に来て、ぼくに赤いバラを差し出したことだ。その花の茎をギターのヘッドストックに刺して、クラブクアトロの最後の夜までつけていたのだけど、その時は無理矢理とか陳腐だとか感じていなかった。むしろぼくたちがさまざまな方法で受けた歓迎に圧倒されていた。
◉Mike Always in 1987
けれどもそれはあまりに早く終わってしまった。サイモンとぼくは、インタヴューやレコードにサインすることが残っていたけど、他のクルーは10月5日の早朝に別れを告げた。この別れの寂しさが、ぼくたちが最高潮に達し、ぼくたちをそこに導いてくれた潮が永遠に引いていくことをそのときすでに悟っていたのかどうかはわからない。けれども純粋に個人的に見た場合、それは真実ではなかった。ジュリアとぼくはその後すぐに『The Red Shoes』を制作し、それはエルの人気作品となった。サイモンは、デレクの作品などのサウンドトラックを作ったり、プロデュースを続けていた。その後ぼくは定期的に日本に行き、2021年の終わりか2022年春にもツアーを行うという話が出ている。けれどもエルでは、日本の別世界で過ごした数日間に匹敵するものは何もなかった。そこでぼくたちは、自分たちのポップに対するヴィジョンを共有し、理解してくれる人と出会った。
それが問題なのかもしれない。1年以内にエルはなくなり、ぼくたちはそれぞれの道を歩ことになった。日本を離れるとき、ぼくたちは自分たちが知らなかった家も去ったのだ。もっともイギリス的なレーベル、エル・レコードにとって、本当の異国はイギリスそのものだったのだ。
フィリップ・オクレールことルイ・フィリップ
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